江戸時代の俳人・松尾芭蕉[1644−1694]とその弟子・曾良[1649−1710]が「おくのほそ道」の旅に発ち、初夏の平泉を訪れたのは、西行の旅より遅れて約500年後の元禄2年(1689)のことでした。芭蕉は46歳、5歳年少の曾良が41歳の時です。
「おくのほそ道」は、歌枕をたずねる旅だったと言われています。旅が始まった元禄2年は、丁度、西行の500年忌にあたりました。かつて西行が先人を慕ってみちのくの歌枕をめぐったように、芭蕉もまた敬愛する西行や能因の足跡を追い、また、義経ゆかりの地を訪れようと旅立つのです。旅の直前、門人に宛てた手紙の中で、芭蕉は「能因法師、西行上人の踵の痛みも思い知らん」と記しています。
元禄2年3月27日(新暦5月16日)の早朝、曾良を伴い、江戸・深川を発った芭蕉は、日光、松島、平泉、象潟、金沢などを経て、同年8月21日(新暦10月4日)頃、「おくのほそ道」むすびの地・大垣(岐阜県)に到着します。大垣にしばらく滞在した後、芭蕉は今度は伊勢に向けて出立し、江戸に戻ったのは深川を発ってから2年7ヵ月後の元禄4年(1691)10月27日(新暦12月16日)でした。
「おくのほそ道」が完成するのはそれからさらに2年半後、元禄7年(1684)春のことになります。
芭蕉が訪れた頃の平泉は、西行が見た黄金期とは違い、仙台藩四代藩主綱村が整備をはじめてはいたものの、中尊寺等の整備はまだ行われておらず、「三代の栄耀一睡の中にして」滅び、わずかに金色堂と経蔵が残るだけでした。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高舘にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時の移るまて泪を落し侍りぬ
夏草や 兵どもが 夢の跡
卯の花に 兼房みゆる 白毛かな 曾良
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)
「おくのほそ道」
平泉に到着した芭蕉一行は、まず源義経最期の地と言い伝えられている高館にのぼりました。北上川と両岸に広がる古戦場跡に、義経らをしのび、世の無常さを感じながら、「時の移るまて泪を落し」たとあります。曾良の句にある「兼房」とは、室町時代に書かれた軍記物語『義経記(ぎけいき)』の登場人物・十郎権頭兼房のことです。兼房は義経の正妻・久我の姫君の守り役で、義経に付き従い、衣川の館で最後まで戦い奮死しました。
高館を後にした二人は中尊寺へ向かっています。現在、金色堂脇には、「五月雨の降りのこしてや光堂」の句碑が建てられていますが、芭蕉が金色堂を詠んだとして有名なこの句は、草稿にはなく、代わりに「五月雨や年々降りて五百たび」「蛍火の昼は消つゝ柱かな」の二句が掲載されています。この二句は、浄書の段階で抹消され、新たに案じられた「五月雨の降りのこしてや光堂」の句が残されました。これらの推敲の跡は、曾良が芭蕉から与えられ、その子孫に伝えられたといわれる「おくのほそ道」(曾良本)に残っています。
「おくのほそ道」行脚に随行するにあたり、曾良はさまざまな書物から巡歴予定の歌枕を抜書きして、それをまとめたノートを旅に携帯しました。この歌枕覚書(名勝備忘録)のあとに収められている「元禄二年日記」には、芭蕉との旅の様子が詳細に記されており、創作部分も多い「おくのほそ道」を研究する上で、貴重な資料となっています。
平泉行について書かれているのは、5月13日(新暦6月29日)の日記です。この日の午前10時頃、芭蕉と曾良は、前日泊まった一関から平泉に向けて出発しました。
十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リに近シ(伊沢八幡壱リ余奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。
『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)
「曾良旅日記」
日記中に見える「さくら山」は西行が歌に詠んだ束稲山、月山・白山はそれぞれ月山神社・白山神社、また「シミン堂」は新御堂が訛ったもので無量光院の通称です。芭蕉の「おくのほそ道」では「二堂開帳す」とありますが、実際には、二堂のうちの1つ、経堂は、「別当が留守にて開かず」拝見できなかったことが、曾良の日記から分かります。達谷窟は遠かったため断念、また毛越寺にも立ち寄っていないようです。
芭蕉と曾良が一関の宿に戻ったのは、午後4時頃。このとき二人が泊まったと伝えられる金森邸は、芭蕉が2泊したことから「二夜庵」と呼ばれ、現在その跡地には石碑が建てられています(一関市地主町)。
No | タイトル | 編著者名 | 出版社 | 出版年 |
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1 | おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 | 芭蕉‖[著] 萩原 恭男‖校注 | 岩波書店 | 1982.7 |
2 | おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 | 芭蕉‖[著] 萩原 恭男‖校注 | 岩波書店 | 1991.12 |
3 | おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き | [松尾 芭蕉‖著] 潁原 退蔵‖訳注 | 角川書店 | 2003.3 |
4 | 新編日本古典文学全集71 松尾芭蕉集2 紀行・日記編 俳文編 連句編 | 松尾 芭蕉‖[著] 井本 農一‖[ほか]校注 訳 | 小学館 | 1997.9 |
5 | 奥の細道、その他、芭蕉翁紀行集 (岩波文庫復刻版) | 芭蕉‖著 伊藤 松宇‖校訂 | 一穂社 | 2005.10 |
6 | 完訳日本の古典55 芭蕉文集 | [松尾 芭蕉‖著] 井本 農一‖[ほか]校注 訳 | 小学館 | 1985.12 |
7 | 校本芭蕉全集 第6巻 紀行・日記篇 俳文篇 | 松尾 芭蕉‖[著] 井本 農一‖[ほか]校注 | 角川書店 | 1962.11 |
8 | 新編芭蕉大成 | [松尾 芭蕉‖著] 尾形 仂‖編者代表 | 三省堂 | 1999.2 |
No | タイトル | 編著者名 | 出版社 | 出版年 |
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1 | おくのほそ道 The narrow road to oku | 芭蕉‖[著] ドナルド キーン‖訳 | 講談社インターナショナル | 1996.10 |
No | タイトル | 編著者名 | 出版社 | 出版年 |
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1 | おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 | 芭蕉‖[著] 萩原 恭男‖校注 | 岩波書店 | 1982.7 |
2 | おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 | 芭蕉‖[著] 萩原 恭男‖校注 | 岩波書店 | 1991.12 |
3 | おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き | [松尾 芭蕉‖著] 潁原 退蔵‖訳注 | 角川書店 | 2003.3 |
8 | 新編芭蕉大成 | [松尾 芭蕉‖著] 尾形 仂‖編者代表 | 三省堂 | 1999.2 |