平安後期の歌人・西行[1118−1190]は、平泉を2度訪れています。
1度目は、20代後半の頃と推測されており、旅の目的は、100年以上前の歌人・能因法師が訪れたみちのくの歌枕(和歌にちなんだ地名や名所)を実際に巡ることでした。このとき、奥州藤原氏は「果福、父を過ぐ」(『吾妻鏡』)といわれた二代・基衡全盛の時代です。
2度目は文治2年(1186)、西行69歳の頃、東大寺再建のための砂金勧請に秀衡を訪ねたときでした。西行はその目的を果たし、砂金450両が東大寺に送られましたが、西行が平泉を後にした翌年の文治3年(1187)、頼朝の追っ手から逃れた義経が平泉に入ったことが発覚すると、鎌倉と平泉の対立は決定的となり、送金は途絶えました。奥州藤原氏が滅亡したその翌年、西行は73歳の生涯を閉じます。
基衡・秀衡の黄金時代の平泉を訪れた西行は、衣川や束稲山の歌を『山家集』に残しました。
旧暦10月12日(現在の12月初旬)平泉に到着した西行は、激しく荒れる天候の中を押して「前九年合戦」の古戦場・衣川の城を見に行き、凍りつく衣川をうたっています。
十月十二日平泉にまかりつきたりけるに、ゆきふり、あらしはげしく、ことのほかにあれたりけり。いつしか衣川みまほしくてまかり向ひてみけり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたることがらようかはりて物を見る心ちしけり。汀凍りてとりわきさえければ
とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも
西行『山家集』(伊藤嘉夫 校註/朝日新聞社/1954)
「山家集 下(雑)」1218
この他にも、双輪寺(京都東山)の歌会の席でも、西行は衣川の歌を詠んでいます。
雙輪寺にて、松汀に近しといふことを人々のよみけるに
衣川 みぎはによりて たつ波は きしの松が根あらふなりけり
西行『山家集』(伊藤嘉夫 校註/朝日新聞社/1954)
「聞書集」1894
衣川収蔵庫「懐徳館」の前庭には、この「ころも川」碑と「とりわきて」碑の二基の西行歌碑が建てられています。
中尊寺対岸にある束稲山(たばしねやま)は、かつて安倍頼時の時代に1万本の桜を植えたと伝えられる桜の名所でした。西行は、その美しさに感動して、吉野山以外にもこれほど見事な桜の山があったのだという驚きを歌にしています。
みちのくにに平泉にむかひて、束稲と申す山の侍るに、こと木は少きやうに、桜のかぎりみえて花のさきたりけるを見てよめる
ききもせず たばしねやまのさくら花 よしののほかに かかるべしとは
西行『山家集』(伊藤嘉夫 校註/朝日新聞社/1954)
「山家集 下(雑)」1533
現在束稲山には当時の桜はほとんど残っていませんが、駒形山麓に整備された「西行桜の森」には、オオヤマザクラなど100種3000本余りの桜が植えられ、その美しさを楽しむことができます。
No | タイトル | 編著者名 | 出版社 | 出版年 |
---|---|---|---|---|
1 | 山家集 | 西行‖著 伊藤嘉夫‖校註 | 朝日新聞社 | 1954 |
2 | 西行全集 | 西行‖著 尾山篤二郎‖編著 | 五月書房 | 1978.9 |